2011年4月28日木曜日

LEGO

息子にロボット教室に行かないかと誘ったとき少し渋ったが、二、三度言うといって見ると答えた。一月から三月まで体験的に入会し、最後に続けるかと聞いたら「もういい」と答えた。それで四月からは行かないことにした。

それでもやっぱり理科系の体験はしたほうがいいと思ったので、今度はLEGOのロボットキットWeDoをユーチューブで見て、息子にこれ買ってみるかと聞いた。彼はどっちでもいいと答えた。どっちでもいいというときは大概続かないので、それはやめてlego - education eco , NXT Wind Turbine を見せたら、これは欲しいと言い出した。

lego - education ecoと言うのは風力や太陽熱を使った省エネの学習キットであり、6歳でなんでこんなもの欲しいのかといぶかったが、欲しがるのだからまあいいかと注文先を探した。

ところがどこを探しても売っていない。LEGOで検索するとおもちゃは一杯出てくる。ロボット学習用としてWeDoやマインドストリームもそこそこ見つけることが出来た。ところがこのEcoはどこにも売っていない。そこで、LEGOの本社のページに行き、そこから色々探して日本の理科系教材の販売会社に行きついた。

そこでもホームページのどこを探してもEcoは見つからない。商品番号で検索してみると発注ページを見つけることが出来た。即発注したが、翌日この商品は学校か塾にしか販売していないとメールが来て、事情を説明して欲しいと書いてあった。そこでホームスクールをやっているとメールを返したら、それなら売りますといってくれて数日後届いた。

早速、息子は組み始めたが、それを見ていて驚いた。正直LEGOは子供のおもちゃとしか認識していなかったが、とてもよく出来ている。マニュアルがあるが全くと言って良いほど文字の説明が無い。絵ですべて表現している。これなら年齢、国籍を問わずだれでもつくれる。
さらに何十種類も作れるのに組み立てが簡単である。それでいて、私が見ても本物と変わらないほど、精度がいいし、強度もしっかりしている。
LEGO社の遊ぶことがすなわち学ぶことという考えがよく分かる。どうしてこんなにいいものをもっと売らないのだろう。

息子は楽しそうにいじくり回して半日ほどで2種類も組み立ててしまった。

2011年4月25日月曜日

モノポリー

息子が私のモノポリーを見つけてきて、やりたいと言い出した。
まだ少し早いからといったが、どうしてもやりたいというので
妻も一緒に3人でやることにした。

こういったゲームはどういうわけか妻が得意で私はあまり強くはない。
で、妻がバンカーを務めながらやり方を説明することにした。

最初はあまり時間もなかったので軽くやって途中で終了した。
これは私が勝った。妻に勝てただけでうれしかった。

次の日、朝から息子がやりたいと言いはじめ、午前中に少しやって
帰ってからまた続きをやるということにした。

出かけている間、早く帰ろうとうるさく言うのに閉口して
早めに切り上げて家に帰った。

ゲームは一進一退だったが、夕食前には息子が多くのカードを集め、
建物や、ホテルを建てまくって、妻がまず破産した。
私のほうも金は尽きて、資産も抵当に入ってしまった。
そして二人してギブアップ宣言してやっと終わった。

子どもとモノポリーをやってみて思った。

まず資産の計算が不可欠で、算数の訓練になる。
カードを読むことで文字の練習になる。
偶然性もあるので年少でも勝つチャンスがある。
そして、何といっても駆け引きを通して心理戦の勉強になる。

先生の授業をおとなしく聞いているよりずっと勉強になるだろう。

それにしてもわずか6歳で覚えたばかりの少年に
夫婦そろってぼろ負けするとは思わなかった。トホホ

2011年4月22日金曜日

ボルタリング

家を新築したのでロフトへの吹き抜けにボルダリングの壁をつけてもらった。
建築家が「なんですかそれ」というので、写真を見せて合板に穴をあけて裏から固定ナットを付けておくと説明したら何とか作ってもらえた。

家が完成して息子にボルダリングを見せたら不安そうにして登らなかった。でも、いとこの子が来たとき、あっという間によじ登ってしまったので、 息子もできるようになった。それからは毎日登ったり降りたりして楽しんでいた。

昨日、いつものように登っていたら突然ガタンと音がして、泣き声がした。あわてて行ってみると息子が泣いていた。しばらくして落ち着いてきたので聞くとホールドが回って落ちたとのことだった。よく見ると私が止めたホールドだった。よく締めたはずなのにどうしてゆるんだかわからないが、もう一度締め直したら、息子はすぐまた昇っていた。

昔は一度痛い目に合うとなかなかやろうとしなかったが、少し成長したようだ。

でも、今回はお父さんが悪かった。ごめんね。

2011年4月21日木曜日

学習漫画

ホームスクールをはじめて以来、息子には勉強として何も教えていない。だから彼にとって毎日が日曜日である。

代わりにと息子がほしがるままにドラえもんの学習漫画や朝日新聞の「きのうのあした」など買ってあげている。暇なとき一人で繰り返し読んでいる。

以前、私が面白いと思って買ってあった「マンガサイエンス」を息子が見つけて読んでから、ほしがるまま1冊ずつ買い集めて12巻全部そろえた。たまに私がそれをぺらぺらとめくってみると内容が難しくて、「これ、本当に読んでる? わかる?」と聞くと、息子は「何回も読み返すとだんだん意味がわかってくる」と答えた。それでCO2のことや電気のことに詳しくなって、家の電気を片っ端から消して歩くのが困ると妻がぼやいていた。

親同士の会話を聞いていて息子がわからないときだけ聞いてくるが、そんなときは詳しく説明してあげるようにしている。聞かれなければ何も教えない。

息子が母親や私に小難しいことを聞いてきて、それはわからないと答えると、「何だ知らないんだ」とちょっと小ばかにするのが癇に障るけど。

2011年4月20日水曜日

将棋

このところ息子は将棋に嵌っている。

例によって崩し将棋から始まり、お金将棋、まわり将棋、そして本将棋と進んできた。

コマの動き方もよくわからないので一つ一つ教えながらやってきた。
でも少しは面白くなってきたようで、毎日やりたがるようになった。ところが十番ほど指してきたころから急に分かってきたようで、私も多少考えないといけなくなってきた。凄いとほめてあげたらとても喜んでいた。

ある日、妻の弟が遊びに来たので、息子が将棋をやりたがった。それで二人で指して、彼は秒速で詰んでしまい、息子を泣かせてしまった。


息子はそれでもやりたがるので、もしかすると将棋のプロになるかもしれないと思っている。(^ ^)

2011年4月15日金曜日

教科書

妻が小学校からもらってきた教科書を見て思った。とてもカラフルでまるで雑誌の付録みたいだ。

息子は一人で教科書をペラペラめくり、所々何か書き込んでいたが、私には何も言わなかった。

昔の教科書「サイタサイタ」まではともかく、以前に比べ楽しそうに勉強できるための工夫はされている。

ただ、相変わらず、同じ年齢の子どもが同時期に同じ教科書で同じことを学んでいる(いなければならない)ことにはやっぱり違和感を感じてしまうけど。

さて、今日は新築した家のロフトの改造をしたが、息子が手伝うと言って、電気ドライバーで合板にビスを打ち込んだり、ハンマーの使い方を教わって釘を打っていた。最初は指を叩いては痛い痛いと言っていたが、合板一枚を打ち終わる頃には結構様になっていた。次は一緒に本棚を作るつもりだ。

そしていつものように布団の中で世界の歴史のローマ帝国の部分を聞きながら寝た。

2011年4月8日金曜日

科学的知識と生活体験

人が学ぶということを考えると生活体験と科学知識の二つの面があると思う。

特に幼い子どもの場合は多くの知識は生活体験から得られる。目で見て、手で触って、音に聞き、時には濡れて、溺れて、そこから水というものを知る。やがて水が凍ることで氷になることや、蒸発して空気になってしまうこともあることを体験し、そして親から水は0度で氷になり、100度で蒸発するということを教わって、科学的知識として身につける。つまり生活体験が科学知識と統合して概念になる。これをいくつも繰り返し成長する。
子どもが幼稚園や学校に進むとこれが逆転する。先に授業などの形で国語、算数といった科学的知識を教えられ、その知識を生活体験により確認することで個人の中で概念として確立させることができる。

つまり、子どもが大人になるということは生活体験と科学的知識との相互作用の輻輳的積み重ねである。生活体験だけでは未開な原始人的生活だけで終わることになるし、科学的知識だけで生活体験を持たないといわゆる机上の空論となり、自分自身を含め、誰をも説得することはできないだろう。

文明が開く前は覚えることも少なく、なれる仕事も限られていた。だから3年から6年勉強すれば大人として仕事もできた。人間の歴史が深まるにつれ、獲得すべき知識は増大の一途をたどり、成人までにすべてを習得することは不可能となっている。一方学歴社会が少年少女に進学競争の激化という形で強いプレッシャーとなり、多岐にわたる知識の習得が要求されるようになった。その結果、生活体験をする余裕もなく、一方的な科学的知識の詰め込みという形が学校さらには家庭に蔓延することになった。

今多くの若者たちの間のニートや引きこもりなどの虚無感はこの生活体験なき科学知識の押しつけからきていると思われる。

子どもたちにとって学校や家庭は授業を受け、成績を上げることによってしか自らを評価されない場となってしまった。学校ではわずかばかりの体育や休み時間という生活体験の場を除けば常に競争にさらされている。家に帰っても塾や家庭教師や宿題に追われて、生活体験をする場はほとんどない。
そういった空理空論の詰め込みに耐えられなくなった子どもが不登校などの非常手段をとるしかない状態に追いやられていると考えている。また科学的知識偏重が、生活体験の不足となって共感性の未熟さとなり、いじめを誘発しているのではないだろうか。

12歳ぐらいまでの時期においては家の手伝いや、遊びを通じた生活体験の充実が大切であり、科学的知識は中学生ぐらいからで十分間に合うと考えている。
一例をあげればホームスクールを14歳までやっていた少年が、あるとき文字が読めないことに困って勉強を始め、18歳の時にはハーバード大学に入学したという例がある。別の例では中学生の歳まで釣りばかりしてまったく勉強をしなかったが、一念発起し、小学校6年間の教科を1年間一人で難なく習得したともいわれる。しかもその後の成長は同学年の学校へ行っている子供より早かったそうだ。

つまり、彼らは勉強を始めるまで毎日遊びほうけていたが、その中で確実に成長していたということだ。さらに学校へ行っている子どもたちが教師の言うとおりに単純に記憶していたのに対し、彼らは自らの体で、リスクを背負いながら物の道理を体験していたのだ。だから学校に行った子どもより、物の本質を見極める目が育っていた。科学的知識をその豊富な生活体験と突合せでき、概念をスムーズに確立できたといえるのではないだろうか。

子どもの生活体験をおろそかにすると、いずれそのツケを子どもが支払うことになる。
と私は思っている。

2011年4月7日木曜日

ホームスクーラーの日常

いよいよ息子のホームスクールが始まり、これまでスクールに行っていたので、世間とは逆に4月から毎日息子が家にいる状態になった。

学校へ行かない息子は毎日漫画を読んだり、親とふざけたり、ネットゲームをしている。週に一回ほどいとこの女の子と一緒に遊んでいる。

ネットゲームはこれまで通っていたスクールで覚えてきてしまい、無理に止めることもよくないと考えて、時間制限をして許可している。私としてはやってほしくはないが。

今息子は歴史にはまっている。はじめ日本の歴史を毎晩私に話をさせていたが、親より詳しくなってしまい、最近は世界史にはまっている。私も歴史なんかきれいに忘れているので話して聞かすことはできない。歴史の本を買ってきて、毎晩2ページずつ読んであげている。

朝日小学生新聞を半年前からとっていたせいか、かな漢字は書くのは苦手だが、読むのはかなりできる。小学6年の漢字の半分は読める。文字を比較的スムーズに覚えたのは3歳ぐらいのときフラッシュを2か月ぐらいやったためのような気がする。最も、数か月で息子がやりたくないと言い出したのでやめたけれど。

算数は好きらしく、調子に乗って教えていたら、分数の足し算まで覚え始めたので、これはまずいと思って今はやめている。その代りどんぐりクラブの良質な算数問題を週1回やらせているが、こちらは好きではないらしく嫌がってやらない時もある。そんな時はそのままにしている。

 そんな感じでホームスクールが始まった。

今日は妻が学校に教科書をもらいに行った。

2011年4月4日月曜日

東日本大震災

このたびの東北地方太平洋沖地震で、被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。また1日も早く復旧されますようお祈り申し上げます。


今回も、被災された皆様の冷静にして沈着な行動に対する世界中の賞賛の言葉と、それに比し東電の経営陣や政府の展望なき右往左往が目につきます。これは毎度のことで、太平洋戦争でも兵隊は強靭だが、将校の無能さが目に余ると言われたときと何も変わっていません。

私は、被災者の皆様も菅総理も東電の社長もみんな普通の日本人だろうと思うのです。この日本人の特性は東西南北10mまではよく見えていても、100m、1kmの先を見通すことができないとところにあると思うのです。イギリスのブレア元首相が政治の根幹を聞かれて、「一に教育、二に教育、三に教育」と言ったのに対し、菅首相が就任のとき「一に雇用、二に雇用、三に雇用」といったのを聞いて、この人は未来が全く見えていないと、がっかりしたことを覚えています。政治家がどう頑張っても雇用を増やすことは容易ではありません。政治家、ことに宰相たる者は遠い未来をみてそのために今何をしなければならないかを考えることが主たる仕事だと思うのですが、彼もまた周囲10mしか見えていないのです。たぶん彼は一般市民としては大変優秀で人望も厚いのかもしれません。それでもリーダーとなると疑問符が拭えません。

それではなぜこのように周囲10mしか見えていない人が組織のリーダーになるのでしょうか。そこに日本の特徴が現れています。日本人は四方八方10mは目配りが利くのですが、欧米人や中国人の場合は特定の方向に1kmでも見通せるが、それ以外の方向には1mも見えないということがあるのだと思うのです。

日本では99%が四方に目配りする人たちなので、1km見通す人を本質的に理解できません。そういう人をKYと評するのでしょう。そういった気配り人の中からリーダーが選ばれるのだから、1kmも見通すことのできる人がリーダーになるはずがないのです。

その違いが学校教育にも現れていて、遠く見通せる人間はクラスで排除されてしまうのです。不登校になる子ども達は、ほかの人より少し先が見えて、その分人よりよく見えない部分があるのだろうと思うのです。それを個性と捉えることができない学校が、本来であればいるはずのリーダーを潰していると私は考えています。


4月になり、息子も小学校に上がる年になりましたが、これから学校へ行かない生活が始まります。念のため、「入学式だけでも行ってみないか」と聞いてみましたが、絶対いやだと言い張っています。息子はこれからの12年間を家で過ごしながら成長していくと思います。このブログが12年続くかどうかわかりませんが、学校へ行かない子どもがどう育っていくか、できる限りご報告するつもりです。