2012年7月27日金曜日

静岡市長の言葉、ホッとします

私は静岡市民ではないので、この市長がどういう人物なのかはまったく知らないのですが、今日PCを開いたときに目に飛び込んできたニュースを読んで、ここに投稿したくなりました。

ホームスクールとは少し視点の違うところから出ている言葉だとは思うのですが、それでも子供を本気で守ろうとしている姿勢や、よくありがちな「学校は何があっても行くべきところだ」という信仰がなさそうなところに好感が持てるような気がします。(なんとも曖昧な表現ですけれども・・・)

ではここに貼り付けますね。以下、記事です。


いじめ「学校行かなくても」=静岡市長がメッセージ

静岡市の田辺信宏市長は27日の定例記者会見で、大津市の中学2年生の男子生徒がいじめを受けて自殺したことを受け、「いじめが止まらないなら学校に行かなくていい」などとするメッセージを発表した。
 市長は、いじめられている子どもに市の24時間電話相談を利用するよう呼び掛けた上で、「悩みを伝えられなかったり心が折れそうになったりしたときは学校に行かなくていい。自分の身を守るのは最低限自分の責任だ」と訴えた。(2012/07/27-13:06)


2012年7月14日土曜日

いじめ自殺、なぜ防げない

新聞の記事に「文科省の対策常に後手」とあったが、これはいわば内臓疾患でできた炎症に膏薬貼っているようなものだからではないだろうか。いじめの加害者や学校や教育委員会を責めて、一件落着となることをとても憂いている。

2012年7月2日月曜日

ふたこぶラクダ

コンピュータの世界ではプログラムの世界を目指す人のうち40%しかプログラマに向いていないと言う説があります。プログラムは自然言語などと異なり、一つの論理をすべてに当てはめることができますし、そうしないとまともなソフトは組めません。残りの人たちはどうしても一つのルールをすべてに当てはめることができないそうです。頭が良いか悪いかはまったく関係ないそうです。

一方小説や絵画などの芸術系の場合はひとつの論理をすべてに当てはめては面白くもない単調な作品になるでしょう。私の知っている限りではプログラマで芸術家と言う人は寡聞にして出会ったことがありません。

かく言う私はプログラミングを生業としていますが、読む本はサイエンスやドキュメントばかりで小説は読みません。まるっきり面白くないんです。私は数学が好きでしたが古文や漢文はいっつも零点に近かったです。何でこんな勉強しなければいけないか不思議で仕方ありませんでした。

学校ではふたこぶラクダがいるといわれています。成績で分布図を描くと普通なら正規分布と言って一つの山と長い裾野ができるのですが、今の学校ではできる子どもとできない子どもの二つの山ができるそうです。

フォードがT型フォードを開発したとき同じデザインの車を大量に生産して売りまくった話は有名です。でも今はスターバックスのように多種多様な商品を取り揃えた会社が伸びているのです。

学校は今T型フォードを作った工場の行員を必要とした時代のままで止まっているのじゃないでしょうか。市場は無数の商品をこれでもかと並べて、だめだと分かればすぐに引っ込めてしまう時代なのです。当然子どもたちもその時代の要請にあわせて多種多様なライフスタイルを持って学校に来るのです。にもかかわらず学校はあいも変わらず同じ型の人間を作ろうとしています。

特に問題は小学校低学年です。就学前の多様な子どもたちを、文科省の強い意志のもとで追い詰められた教師がそのまま子どもたちを型にはめようとてぐすね引いて待っています。

そのままであればその素質を自然のまま自由に伸ばすことで、どの子もその子なりに成長するはずです。学校はどの子にも同じことを要求するから、不向きなことであれば理解できずに落ちこぼれていきます。それをまた丁寧に拾い上げて伸ばしていくだけの余裕が教師にはありません。逆にとても分かりが早い子もいるのですが、その子どもをさらに伸ばすよりもそこで待たせるようにします。二つに分かれた子どもは一方には誤った優越感、他方には息の詰まる劣等感を植え付けてしまうのです。そうやって数年たてば学校に適応できるように子どもを矯正してしまうのです。その結果がふたこぶラクダです。

皮肉なことにみんな等しく同じにしようとして、二極分化してしまうのです。

しかし、優秀な子どもも中学や高校に進むと遅れた子どもになることもあります。そんな時誤った優越感が誤った劣等感に転化して、そのとき多くの子が落ちこぼれてしまうのです。

子どもたちは長い学校生活の中で、先生という独裁的支配者の下その顔色を見たり、好まれるような振る舞いを身につけ、成績が劣る人を侮辱したり、より優れた人の足を引っ張ることに才能を発揮できるようになっても、多様なキャラクタを集めてよいところをうまく組み合わせて、カバーをしあいながら統合的に事を進めるという能力を育てられることはありません。

ふたこぶラクダの成績上位こぶは日本の没落に書いたとおり学校秀才として企業や官庁で道を誤り、下位こぶは劣等感を叩き込まれて劣悪な仕事に就くか、引きこもってしまうのでしょう。ひどいときは無差別殺人を犯してしまうと思うのです。

たぶん、かろうじて学校の害毒に犯されなかった意志の強固な子どもだけがまともな仕事(多くは海外の企業)に勤めて、自立の道を行くのだと思うのです。

どの企業も多種多様な商品を日夜開発しています。そんな時教科書のように正解が一つはあるという勉強をしていると、常に正解を探す生き方をしてしまうのです。人のやらないことに答えがあるかもしれませんが、正解はないのです。常に新しいことに挑戦していないとすぐ陳腐化してしまいます。学校ではテストを繰り返して一つの枠に収めようとします。そのため序列が生まれ、特異性のある感性を押しつぶして、結果的に日本の社会を破壊していると思うのです。テストが諸悪の根源なのです。

フィンランドやデンマークでは18歳まではテストをしてはいけないことになっているようです。それで何も問題はなく、学力は世界一を争っています。

子どもを評価して順列を付けるからふたこぶラクダになるのです。今日本には大学が豊富にあり学校を選ばなければ誰でもいけるようになりました。今こそ高校まではすべてのテストを廃止し、センター試験もやめて、大学を全入にし、ついていけないものをどんどん留年させればいいのではないかと思うのです。そして本当に優秀な人だけを卒業させることで社会の評価が上がれば、大学の格も上がっていくと思うのです。

文科省はすべての学校と教師に自由を与えるべきです。そして学校はすべての子どもに自由を与えて欲しいと思います。