2014年12月27日土曜日

失敗

失敗しない、失敗に向かわない回避の方法を教えるのが学校。

でも、失敗のなかにこそ自分を成長させる要素がある。


息子は生まれたときから小遣いをもらっていない。
(ただしサマーヒルスクールでは週に5ポンドほどもらっている)

もらうのは正月のお年玉だけ。

親戚も含めてもらったお年玉は全部自分のものだ。

親は息子のお金を一切管理しない。

初めてのお年玉は1月にゲームセンターに行き一日で使い果たして帰ってきた。

それで次の正月まで一文無しで過ごした。

次の年もらったお年玉は決して使おうとしなかった。

翌年もそのまた翌年も、使わないでため続けた。
(ためるばかりで使わないのも問題ではあるが)

彼は自分の失敗から無駄遣いのばかばかしさを学んだ。

毎週、毎月こずかいをあげると無駄遣いしても少し待てばいい。

さすがに1年は一回で懲りたようだ。

成功者たちはみな、失敗の産物をよく理解している。

だから、失敗を怖れてはいないし、失敗から立ち直る術を知っている。

2014年12月21日日曜日

テストの虐殺


たとえばこの問題、間違えていると言えるだろうか

誰が見ても正解だと思う。
Twitterで画像を見るFacebookより

テストで優れた解答を考え出したとしても
あらかじめ決められた解答以外は不正解になり
成績表に響く。


また読書感想文を書けと言われて提出したが
文章に対する評価はしてくれずに
まだ教えてない漢字を使っているからと×をつけられた子がいる。

すると次から教わった漢字かどうかばかり気にして
文章には何の注意も払うことはなくなったそうだ。

教師よりうまい絵を描く子に【子どもらしくない絵だ】と言って
赤点をつけられた人は絵描きになり損ねて悔しそうだった。

こういう事態が続くと、子どもは自分の知的関心より、
先生の思惑に気を取られてしまう。

何でもどこかに正解があり、その正解を先生の顔色を頼りに
探り当てるのが勉強だと思うようになる。

平安京の成立年を答えさせる問題は定番だが、
学説を調べると諸説あり、まだ確定していない。
にもかかわらず一応決まった数字を入れるしかない。

本来の歴史はある現象が起きた原因やその結果に対する
自分の考え方を論述する方が学問に値する。

しかし、その回答に対し、教師が正しく評価できない。
つまり、採点できない。
だから、そういう問題を出すことはない。

英作文では日本語に堪能なアメリカ人に聞くと
人によって英文が違うし、仮に正しいとしても、
同じ言い方を繰り返すとバカみたいなので、
言い方を変えるのが普通だと言う。


これまで世の中で生きてきたが正解なんかどこにもなかった。

正解だと思ってきたことは基本的に錯覚か誤解であったことがほとんどだ。

唯一問題と解答が対一になっているのは算数だけだった。
数学になると答えは同じでも解法は人によって違っていた。


結局学校でテストを繰り返すことで得られたものは
問題に突き当たった時正解を探してしまう習性が付いたことだった。

だから、世の中にセミナーがいっぱいあり、コンサルがはやるのだ。
今まで、セミナーの講師や、コンサルの先生に聞いてうまくいったためしがない。

結局、自分で悪戦苦闘してとりあえず答えをひねり出すしかない。

そして、その答えは正解かだったかどうか永久に謎のままである。

そこにたどり着くまでエラク遠回りしてしまったのが口惜しい。
さらに、遠回りするためだけに學校へ行った時間を含めて
人生のうち20年ぐらいの無駄の時間を過ごしてしまった。

今息子(10歳)は全く学校へは行っていない。

だから、生まれてから一回もテストを受けたことはなく、
ほとんど毎日友達と遊びほうけている。
最近は毎日ビリヤードか卓球をやっていると言っていた。

がしかし
数学は方程式を学んでいるし
ネイティブ風の英語を話し、
ノートパソコンでプログラミングを始め
「貧困大国アメリカ」を私の本棚から引っ張り出して読んでいる。

みんな自ら好んで選んだ道である。

親はこういうものがあると言うのは見せていて
聞かれれば、教えているが
それはやりたくないと言われたらそのままにしている。

子どもの人生はいずれその子がひとりで生きていくのだ。
親や教師の出る幕はない。

子どもが小さい時は自分で自分なりの解答を探し出すための練習を
遊びの中から学んでいくことが大切だと思う。

本人ができること、できないことは自分でようく分かっている。
テストをして他人から言われる必要はない。

そのうち子どもは自然に勉強したくなってくる。
それを待つのが親の仕事だろうと、今は考えている。

人の創造性は教えられるものではない。

自らひねり出すものだ。

創造性を虐殺するにはテストを100回も繰り返せばいい。

2014年12月16日火曜日

日本国憲法を考える

「日本はなぜ、「基地」と「原発」をやめられないのか」と言う本を読んだ。

アマゾンで何気に評価が高かったのでさほど考えもなしに買ったが、めまいがするほど衝撃を受けた。

詳しくはぜひ読んでほしいが、日本がこのざまなのは敗戦処理を間違えたからだと書いてある。間違えの根本は憲法にあると著者は言う。

日本の現行憲法はGHQの押しつけであり、そのために日本の行政、立法、司法がことごとく無責任になっている。

著者も現行憲法はよくできているとしているが、基本、他人から押し付けられたものだから、日本人にとっては厳密な理解ができないし、しようともしていない。だから時々の状況で都合よく解釈し、何となくそれが当たり前になっている。

国家の基本(背骨)である憲法が国民によって緻密に考え抜かれていないため、それによって立つ法律と、行政の根拠も誰も本当のところが分りえないのだ。

そして、日本における米軍基地の存在は完全に植民地支配で、このような国は世界中ほかの国にはない。酷いいびつでそれを何とか維持しようと日本の官僚がごまかしを繰り返している。

本著の中で伊方原発の上を米軍機が低空飛行して墜落した件について、なぜそんな危険なところで低空飛行したかということについて書かれていたがそれがとても恐ろしい。
「米軍は日本の原発をターゲットに攻撃訓練をしていて、それは万一日本が米国に歯向かってきたときのため」なのだそうだ。

また、沖縄については米国は一時完全返還しようとしたが、昭和天皇がそれを断って駐留を希望した結果現状の占領状態が続いている。

日本の支配層は現在に至るまで、奴隷的隷属を自ら好んでやっているのだ。


これから私たちはみんなで真剣になって日本の憲法があるべき姿を徹底的に話し合い、よりよい姿を固めていく必要がある。

その真剣かつ、透徹した論争の中から生み出す新しい憲法をもとに日本を作り上げていくべきだと考えている。

もちろん、著者も私も平和論者だし、リベラリストだし、反原発だ。それでも本当に必要とみんなが考えるのであれば、国防軍もやむなしと思う。しかし先の大戦のときのような軍部の暴走を防ぐ厳重な縛りをかける必要はあるだろう。

私たちは明治政府が江戸幕府が結んだ不平等条約を苦心を重ねて改定していったように、戦後日本の誤った交渉により取り結んだ日米条約を平等なものに書き換えていくべく真摯な努力をするべきだと思う。

続けて「永続敗戦論――戦後日本の核心」を読んだが、これもまた茫然とする内容であった。一例をあげると、日本の領土問題、尖閣と竹島、北方四島は日本の主張に根拠が薄いと言うことなどが書かれている。

とにかく私たちが戦後受けた教育には欺瞞が満ちているということを認識させられた。


学校の問題も敗戦を終戦と言い換えるごまかしの中で膨らんでいったのだろうと思うものだ。

2014年12月9日火曜日

なぜ学校はこんなにつまらないのか

5.学校はなんでこんなにつまらないのか


学校の歴史から考えてみたい。

学校の原点は修道院の中にあった神学校だと言われている。

しかしそれが国民に対する強制教育に変えたのが産業革命である。

学校が誕生する前は子どもを誕生から育児、教育するのは親の仕事であり、
大人になると家業を継ぐのが普通であった。

鋳掛屋の子は鋳掛屋だし、百姓の子は百姓で、貴族の子は貴族だった。

そんな時代が稲作が始まった5000年前の農業革命からから続いていた。

その終わりを告げたのが産業革命である。

産業革命は蒸気機関の発明により、
それまでの人力や馬力の世界を機械がとってかわった

帆船だと3週間程度かかっていたのが1週間で大西洋を横断できるようになり
船は木造から鉄製に代わり、大きな大砲も積めるようになった。

そのためその後戦争の概念が変わった。

また工場ではパワーの大きい機械を一人や二人で扱えないので、
多くの人間を集めて同じ仕事をさせて大量生産が始まった。

機械は操作が複雑で多くの人を細かな作業に分ける分業が始まった。

決まった時間に始め、決まった作業をし、繰り返し効率よく仕事をする。

そのために、四の五の言わずに黙々と働く人が欲しかった。

でもそんな習慣のない大人にさせようとしても、まずいうことを聞かない。

そこで新しい価値観を与える学校と言う教育施設をつくり、
子どもを親から引きはがしそこに押し込んでしまう法律を作った。

これが学校の始まりである。

学校は読み書き計算を教えるだけではなく、
秩序順応の習慣をしつけると言う裏の役割がある。

これを「闇教育」といい、学校本来の目的である。

その証拠に体罰は読み書きに対してではなく、
闇教育に反した者に対し与えられる。


一方大量の材料と製品を効率よく動かすために
資本家が集まって国家を形成した。

国家が成立すると国家間で凄惨な総力戦が始まった。
地域間の奪い合いが国家を形成したと言い換えてもいい。

工場が生まれることで武器や軍艦の性能が向上し
ヨーロッパは戦争に明け暮れるようになり
大量の武器を使う戦争では戦闘員は騎士から兵士へかわった。

つまり、戦闘行為が専門職から大量の素人集団になったのである。

その点でも学校は有効であった。

国家の支配者は「工場における一斉作業」と、
「戦場における命令指揮下の統一行動」のための
基礎知識を学校教育に求めた。

学校はその期待に沿って、定時開始、一斉授業、一律教育を推し進めた。

そのために教室における教師は全権を掌握し、
その命令に対し絶対服従を子どもたちに押し付けた。


さらにヨーロッパは自国だけでなく世界を制覇し始めた。植民地である。

強烈な戦艦と武器はアジア、アフリカ、アメリカ大陸を震撼させた。

それに対抗するためには、
西洋人の教育制度を取り入れるしかないと悟った。

そうしなかった国は絶滅したか、奴隷として徹底的に収奪されたのだ。


ヨーロッパのやり方をまねるしか選択の余地はなかった、

そのためには子どもの時期から新しい価値観を植え付けるしかないと考えた。

だから、世界中の学校の仕組みはどこに行っても全く同じなのだ。


つまり学校は工場労働者と兵士の養成校として始まった。

始まってしまうとそれ自体が自己目的化して、連綿と今に続いている。


今でも途上国においては学校は有効に機能している。

学校は経済や社会が近代化する一過程として必要だったかもしれない。

しかし21世紀になり先進国では情報革命がおき、
戦争は減少し、工場生産も自動化が進んできた。

近代国家では軍も工場も変革を迫られた。変わらないと生き残れないからだ。

学校も変わらないといけないが、
今でも100年前と同じ方法や教材で授業が行われている。

それは教師や文科省が学校に適応した人で構成されているからで
自身と同じ適応できる人を育てているつもりだ。

学校は今でも変わりなく労働者と兵士を作っている。

しかし、社会はもう労働者も兵士も必要としていない。

言われたとおりに動くしかできない人間は低所得にあえぐことになる。

逆に、学校はそのものが自己目的化し、
高等教育への受験体制が整備されるようになった。


現代に必要なのは時代を切り開く情熱と閃きだ
でもそれを教えることができる先生はいない。

必要ともされていない闇教育を押し付け続けているのだ
子どもが全く求めていないものを押し付けている


だから、学校はつまらないのだ。


もっと問題は、闇教育を受けると、それに従うことが当然と思い込み、
なんら、自ら発想したり、社会を改革しなくなる者たちが生まれることである。

そういう人間ばかりになると社会は硬直化し、最後は経済が破壊される。

日本はそういう状況に陥りつつあり、
結果的に世界の潮流に乗れずに苦しんでいるのだ。

2014年12月3日水曜日

学校不要論 勉強嫌い

あるホームページで大学の関係者らしき人がこのように言っていました。
英語を勉強して、外国語の新聞や記事、本を読んで勉強しようとしたら、すぐに気づくことですが、その国の小学校、中学校で習うような科学用語や歴史用語、社会制度用語が分からないと、社会人が読むようなものは全く手も足も出ないんです。これらは別にその国で普通にテレビを観たりと普通に生活することでもある程度は身に付くと思うかもしれませんが、一回学校で教えて貰ってるのとそうでないのとでは大違いです。
これにはいくつもの矛盾点があり、小学校中学校で科学用語や歴史用語、社会制度用語を英語で教わるのでしょうか。それとも日本語でそのような言葉を習っておかないと英語でもわからないということでしょうか。

さらに、一回学校で教えてもらっているのとそうでないのでは大違いと言っていますが、どう違うのでしょう。

この時代の変化の激しい時に、学校を卒業してから初めて見ることは嫌っと言うほどあります。それが身につかないなら新しいことはすべてマスターができないということになってしまいます。

学校で勉強しまいが、そうでなかろうが、結局は同じです。

たとえ学校で教わっていても、必要な時にはもう一度勉強しなおさないと使えません。

学校は所詮時間の無駄遣いでしかないと思うのです。

でも学校は利害が絡んでいるのでなくすことができません。

問題はそのしわ寄せが子どもたちに来て、やらなくてもいい苦労をさせているのです。

今の子どもたちは夜遅くまで宿題に追われ、塾に通い、テストのために心を悩ませています。

それが子どもを深く傷をつけているということになぜ気づかないのでしょう。

子どもはもともと遊ぶために生まれてきているのだと思うのです。

途上国のテレビもない国の子どもたちは明るくてキラキラした瞳をしています。
子どもたちはお金も勉強もいらないのです、友達と山や川を走り回ることが一番楽しいのです。

日本の子どもたちが塾の帰りにリュックをしょって夜遅くコンビニの周りでゲームをしている姿を見ると本当に悲しくなります。

学歴が欲しいだけで学校に行くのではなく、勉強をしたくて行くのが学校です。

その勉強をしたくなるためには思う存分友達と土や木や花や水と遊ぶことが必要なのです。

人間にとって自然がすべての原点です。

そこから始めることで自分が何をしたいかが見えてくるのだと思います。

そうして初めて、勉強したくてたまらなくなるのでしょう。

赤ちゃんの時は聞くこと、歩くこと、話すこと、絵を見て、描くことが楽しかった

それを寄ってたかってつまらないものにしているのが学校なんです。


まだ羽根も生えていないのに、飛ぶ練習をさせるのはやめてほしいのです。

飛ぶことが嫌いになってしまいます。

自分が飛べるようになってから、飛んで見たいという気持ちになって、

それから青空の中よたよたと羽ばたいていってほしいのです。

それまでは親の庇護の下、存分にひなを楽しんでほしいなと思います。


つぎは なんで学校がこうもつまらないのかを考えてみます

2014年11月30日日曜日

学校不要論 勉強より遊びだ

学校へ行くと机の前に座って勉強をする。
体育の時間やら部活で体を動かす
サッカーや野球でチームプレイを学ぶ。
一見、脳と体を鍛えるのは正しいように見える。
でもこれらは間違えているとは言わないが
大事なことを見落としている。

少年時代に一番大事なことは子どもだけで遊ぶことなのだ

3.勉強より遊びだ

今の子どもたちはゲーム機を使って遊ぶがこれはあまりよくない。

体を使って子どもだけで遊ぶ、これは少年時代にしかできない。

サッカーや野球、バレーボールやラグビー、いろいろあるが、

いずれもスポーツでありルールが決まっている。

スポーツ教室でサッカーをやればルールを教えられる。


子どもが遊ぶということの大事な点は、

子どもだけで遊ぶことだ

そこに大人が関与してはいけない。

あれはだめ、こうしろと言われて遊んでいては学べない

子どもの遊びは自由でなければならない。

しかし、二人以上での遊びにはルールは必要である。

このルールを遊び仲間で決めること、これが大事なのだ。


息子はよく氷鬼をやっていた。

毎日毎日ひたすら友達と氷鬼だ。

息子に聞いた、なんで氷鬼ばかり毎日やって飽きないのだ

息子はこう答えた。

いろいろ遊んだが氷鬼が一番面白い、

毎日、同じことをしているように見えるだろうが、

昨日通用したことが、今日は使えない

相手の動きを予測してどう追いかけるか

どこで待ち伏せるかを考える。

考えると相手はそのまた裏をかいてくる

しかも相手は一人ではない、何人もの相手が予想外の行動をする

そのすべてを予測しないと勝てない。

だから毎回、毎回、展開が変わる、これがおもしろい

さらに、飽きてくるとみんなで集まってルールを変える

これは多数決なので、自分の意見が通るとは限らないが、

みんなと一緒に遊びたいので、

たとえルールが思い通りでなくてもそのルールに従って遊ぶのさ


こう聞いたとき、唖然とした。

これは大人になった時の仕事のやり方と全く同じだ。

学校で民主主義や、ビジネスのことを学ぶ何倍もの知識を

遊びから体験により身に着けているのだ

4歳ぐらいから12歳ぐらいまでの男女が一緒になって遊んでいる。

当然体力も俊敏さもかなり違うがそれもわかっていて

小さい子にはルールを微妙に調整している。

因みに周囲の大人は彼らの遊びに一切関与していない。

にもかかわらず、自然にやっていてそのことを大人に自慢したりしない、

あたりまえのこととしてやっている。

私がそれは凄いことだと言うと、「なんで?」と言う顔をした


学校で一斉授業を一方的に受け、さらに宿題で家の時間も縛られ

スポーツ教室やピアノ教室でも言われたとおりにやることを要求され、

夏休みも冬休みも山のような宿題に追われ

塾に通いそこでも一方的の教わる

さらには受験勉強でひたすら暗記を迫られ

こんな自己判断を認められないまま大学に入り自由にしろと言われても

指図なしで考えることをしたことがなくて、なにができるというのだろう

社会に出てからも指示待ち人間と謗られ、

ニートになり、引きこもりになり、
やけっぱちになると犯罪や薬に頼るようになる。

ブラック企業は学校で自己判断ができなくされた若者を利用している

学校は考えない人間を大量生産している。


子どもは10歳までは勉強させてはいけないと思っている。


10歳過ぎまで文字も知らなかったホームスクーラーが
突然勉強すると言いだして

16歳には大学に入学するまでになった人もいる。(日本ではない)

そうなると本人、勉強したくて大学に来ているから

学校を卒業してきた子より優秀だったそうだ


時代は海図のない時代に入った。

指示通り行けば人生を全うできるという時代は20年前に終わった。

この先世界中の格差は拡大し、日本は徐々に貧しくなる。

言うなら、平安時代から戦国時代に突入したようなものだ

今までの価値観は通用しない。

そういう時、生き残る為には


  • 常識を疑う
  • 協働関係を結ぶ


この二つを上手にできること。

自由な遊びにはこの二つが満ちている。

2014年11月27日木曜日

学校不要論 個性の抑圧

最初に能力と言うものを私なりに考えてみた。

能力とはその人がもともと与えられたものであり、
努力しても持っている能力を増やすことはありえないということ。

こういえば身もふたもない話だが、事実だ。

ここでの能力とは可能性と言い換えてもほぼ同じ

ただ環境(育児や教育)を通じて能力を潰すことは可能だ。

子どもに否定的言葉を投げると、そのたびにその子の可能性を消すことになる。

人によって違うが、仮に1億の可能性があるとすれば、
「こんなこともわからんのか」と言えば言うたびに一つ可能性が消える。

言葉だけでなく身振りであっても子どもを馬鹿にすれば敏感に感じ取る。

1億あるからそう簡単になくなることはないが、
子どもを否定すればその分確実に可能性が抑圧される

ただし、ほめて可能性が減ることもないが、増えることもない。

ほめて、伸びたように見えるのはもともと持っていた能力が
何らかの理由で抑圧されていたのが、解放されることによる効果だと考える。

卓越した行為をみて、本心から驚いた時に発する言葉には効果があるが

ほめることを意図的に行うと逆効果になりやすい

親や教師は子どもの能力を低下させる影響力しか持ち合わせていない

これを前提に

3.個性の抑圧

30人もいる生徒に各自自由にやらせることは無理だとみんな信じている、

だから、学校に行くということは教師のいう通りに覚えることが基本である。

自分のしたいことを勝手にやると叱られる。

知りたいこと、やりたいことは誰も持っている。

にもかかわらず、やってはいけないと言われる。

授業中に自分の知っていることを教わっているとする。

つまらないから、聞いていないで、自分のやりたいことをすると叱られる。

つまらないことを、つまらないと言えば叱られる。

逆に授業の内容が分からないからと、しつこく質問することも許されない。

授業の後で先生に聞けばいいと言うかもしれないが、
半数の生徒が先生の所に聞きに来たら先生は対応できない。
分からない子はスルーして、落ちこぼれにしておかないと学校は成り立たないのだ。

つまり賢くなろうという意欲を押しつぶさないと授業が成り立たない。

その結果どうなるかといえば、

積極的に考えなくなる。

先生と違う行動や意見は抑圧される

特異な行動を取る他の子どもに対しても抑圧的になる

そこからいじめが始まる(こともある)

知的レベルの高い子ほどこの罠にはまりやすい

どんな子どもでもストレスの少ない方向に移動しようとする
子どもに限らず(単細胞生物でも)同じだ。

知的な子は教師の思惑が良く見える。

だからそれに上手に応えてストレスを減らそうとする

そうなると知的な能力を「他者の思惑に従う」方向に使うようになる

悲しいことに学校教育により優秀な子どもの可能性の抑圧が起きている

本当に特異な、独創的でかつ意思の強固な子だけが
教師の世界観を無視できるのだ

逆に知的水準が高くない子どもは先生の思惑もよくわからないし、
教科の内容も理解できないことがある。

そうなると、落ちこぼれるか、懸命になって無駄な勉強をするか、
人の足を引っ張るか、人生をあきらめてしまうことすらある。

いずれにしろ、
ほとんどの子どもは大事な成長期に学校により可能性を抑圧され、

能力のほとんどを押しつぶされて規格化された人間として押し出される


知的水準の高い子どもにとって教師は障害でしかなく、

知的水準の低い子どもにとって学校は牢獄でしかない。

(知的水準≒記憶力)

プロクルーステースのベッド」が学校の実情である

2014年11月26日水曜日

学校不要論 バカを作る学校

学校へ行けばいくほど人間はバカになることの理論的証明。

2.バカを作る学校


学校は成績で子どもに序列をつけると前回書いた。

一般に学校では成績が良い子は褒められるが、
成績があがらない子はうっすら馬鹿にされる。
ひどいと落ちこぼれ扱いだ


成績は学力と必ずしも一致しているわけではない

本来は多様な才能があるにもかかわらず、
学校は成績と言う数値だけが評価の対象だ。

成績は相対的評価であり、子どもたちとの間の位置を表しているに過ぎない。

でも成績評価が悪いとまわりから頭が悪いと決めつけられる。

それは明示的であると暗示的であるかは問わない。

だから、成績が悪いとそれだけで自分はだめだと感じてしまう。

学校からドロップアウトして不登校に逃げてしまう子もいる。

なんとかして成績をあげたいと考える子もいる。

努力して勉強すればいいかもしれないが、
懸命に努力しても他人がもっと成績を上げれば、自分の成績は逆に下がる。

つまり他の子より成績が良ければいい

逆にクラスメートの成績が下がれば自分の成績を上げることができる。

そして、成績をあげるために努力を重ねるより、
人の足を引っ張って努力させないほうが効率的だと気づく

<勉強したのに、してないと嘘をついたことはないだろうか?>

ましてや、成績の悪い奴の勉強を見てあげるなどとは考えも及ばない。

みんなが同じように考え、お互いが足の引っ張り合いをする。

その結果、学校は総体的に学力が低下する

みんなで下げているから、気づきにくいだけである

学校へ行けばみんなバカになるということだ。


その証明がアメリカの研究による、ホームスクーラーのほうが
公立校の生徒より平均30%は成績が高いという報告だ。

当たり前である。

ホームスクーラー同士はお互いに成績で競争してるわけでないから
分かる子どもが分からない子どもに教えている。
教えることでさらに詳しく考えられるようにもなる。

そのほうが仲間意識も高く、協調性も強くなる。

社会では成績より、協調性のほうが大事だ。

ほとんどの学校卒業生は社会に出たとき
競争から協力への意識の切り替えに苦労している。

本当に無駄な苦労としか言えない。

学校不要論 学歴が社会を壊す

学校へは行く必要がないのじゃない。行ってはいけないのだ。

ダメな理由をいくつか挙げてみようか。


1 学歴が社会を壊す


学校は基本的に成績でふるい分ける。
成績は基本テストで評価する。

素行や、人間性でも評価すると言うが、
そういうものは個人(ほとんど場合先生)の主観であるから、
テストのほうがまだ平等だと言えないことはない。


テストはたまたま勉強してきたところが出ることもある。
大学受験にしてもしかりだ。

テストの問題は先生や教科書をいかにそのまま覚えているかで評価すること。

  • 歌がうまい
  • 冗談がうまい、
  • 絵がうまい、
  • サッカーがうまい


などは点数にならないので評価できないので、評価しない。
評価されるのは基本記憶力だけである。

記憶力も人間の持つ一つの能力ではある。
でも、百もある能力のうちの一つでしかない。


事業をやっていると役に立つのは情熱と洞察力だ。記憶力は必要ない。
覚えておかないといけないことはコンピュータにやらせた方が効率的だ。

にもかかわらず人を評価するのに記憶力だけしかないから

情熱も洞察力もない記憶力しかとりえのない人間が
大学に行き、官庁や一流企業に入社する。
そしてそういうやつが高級官僚や大企業の社長、銀行の頭取になる

成績のいいやつは基本、発想力に欠けていることが多い。
(すべてとは言わないが)

そういう人間は独創性のある人間を理解できないからとても嫌う。
そして、保身に走り、周囲に似たような人間を集めて満足する

これが日本を崩壊させているのだ

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歴史を振り返ってみよう。

明治維新後と太平洋戦争の後、日本経済が急成長したのは
維新と戦争が学歴社会が崩壊したからだ。

意欲のある若手が急激に社会の頂点に飛び出してきた。
彼らが社会を根こそぎつくりかえ
世界が目を見張る急成長をさせた。

それが50年、70年たち若手だった人は退場する。

明治の元勲たちが世を去り、
戦後は松下幸之助や本田宗一郎が世を去り、

入れ替わり学歴で入社してきた秀才たちが支配層に入る。
そうなると井深や本田などの天才が会社に入っても潰される

そして、
戦前は無謀としか言えない太平洋戦争に突入し、
戦後はバブルで思い上がった末に崩壊した

明治の元勲が死の間際に日本の行く末を心配したそうだが、
結局、誰も止められなかった。

シャープが液晶工場の失敗で倒産寸前になって、社長が立て続けに変わった。
高橋社長は静岡大学大学院工学研究科の修士課程卒
水嶋副社長は大阪大学大学院物質創成専攻博士後期課程卒
大西常務執行役員は大阪大学経済学部卒

彼らは首を並べて失敗の原因を考えた。
彼らのだした結論は
「会長、社長になると神様になる。その人たちをきちんと補佐するには、下から意見を言えるようになっていなければならない」
「10年前からヒット商品がなぜ出ないのか。これが今日の不振を招いていると我々も思っています」。
水嶋は人材の質が低下したとはみていない。むしろ昔よりも平均的に知的能力の優れた人材が多く入社しているはずである。ユニークで面白い製品が生まれなくなったのは、やはり企業風土が変質したからだとの見立てだ。「上から言われたことをコツコツやっているだけでは駄目なんです。天の声の影響が末端まで広がっているというのが我々の認識です」。
そもそもこの認識が間違えている。
上も下も知的能力の優れた人材で固めていることが原因なのだ。

ユニークな製品が生まれないのは、
ユニークを抑圧する学校教育で優秀な成績を上げた知的な人たちが
会社に充満していること、そのこと自体に問題があるのだ。

端的に言えば「学卒採用試験制度」そのものに問題があるのだ


学校が現在の成績重視で、企業も学歴と入社試験でふるいわけている限り
日本の将来は見えてこない。

学校があるから、子どもと将来の日本はは不幸になるのだ。

➡ 次はバカを作る学校

2014年11月20日木曜日

ゆとり教育の成果

ゆとり教育は、知識重視型の教育方針を詰め込み教育であるとして学習時間と内容を減らし、経験重視型の教育方針をもって、ゆとりある学校をめざし、1980年度、1992年度、2002年度から施行された学習指導要領に沿った教育のことである。(Wikipediaより)

ゆとり教育で育った世代をゆとり世代と言うがあまり肯定的にはとらえられていない。

某芸能人が錦織圭を見て曰く、
ゆとり教育でアホが増えた分、スポーツでガンッていく人が出たのかなと思います。勉強した方がええやろと思ってましたけど、 早いうちに世界に目を向けてると、そんな結果出んねんなあ

この芸能人に限らず多くの日本人が持つゆとり世代に対する印象(=アホ)だろう。しかし、錦織氏のインタビューの受け答えはアホな政治家よりはるかに優れている。

しかし、彼らの期待に反し「ゆとり世代」は他の世代に対し圧倒的な実績を示している。
以下はそのほんの一例である。

スポーツ

香川 ブンデス二連覇
内田 CLベスト4
マー君 プロ野球24連勝 メジャー史上5位の契約金
162㌔を出した日本人最速投手 大谷
体操史上初の個人総合3連覇 内村
日本選手権水泳競技大会史上初の5冠 萩野
ソチオリンピック金メダル 羽生
ウィンブルドンベスト16 全米オープン準優勝 錦織

知能

数学オリンピック個人成績世界1位
物理オリンピック史上最高成績
化学オリンピック史上最高成績
情報オリンピック史上最高成績
科学オリンピック史上最高成績
戦後最年少で直木賞
史上最年少で公認会計士
史上初の6冠を達成した天才囲碁棋士 井山
ロボコン世界大会優勝
国際生体分子デザインコンペ総合優勝
世界中の強豪大学が参加する国際大学対抗プログラミングコンテスト日本勢初の金メダル
世界の天才だけが参加を許されるコーダーの聖地Top Coder Openを二連覇
京大入試で得点率脅威の92%超え(過去最高)
世界トップクラスの学力
大学の入試難易度は昔より上


ゆとり世代は円周率を3.14ではなく3で計算するという神話がある。
実際の教育現場では今まで通り3.14で計算している。ただどうしてもそれが理解できない児童に対しては3でも構わないと決めただけだ。それにもかかわらず、これを金科玉条のように振りかざしてゆとり教育を攻撃した。

そもそもゆとりはそれまでの大学入試に対するアンチテーゼとして、多様な才能を生かすという目的があった。ところが実際にゆとり教育を行うと学歴が低下すると非難を浴びた。学業だけにこだわらないためのゆとり教育を、学校の成績が低下すると非難するのは見当違いも甚だしい。

進学校から国立大、高級官僚か大企業へと言う単線指向から、多様な生き方を認めると言う「ゆとり教育」では、特異な才能が花開くことになる。これまでの高度成長の時は単線指向が望ましい人物像であったが、低成長時代には一人一人が自分の持ち味を最大限に生かす人が急激に成長するが、そうではない人はそれなりの人生を自ら描かないといけない。

世界は気づかなかったが、鄧小平が「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言ったときから単線社会から多様社会へ雪崩を打って移行始めたのだ。これは多様社会=格差社会と言い換えてもいい。

所詮、ゆとり教育を受けていない普通の人にとって、ゆとり教育が持つ効果を理解できないのは仕方ないかもしれない。

幅広い才能を有効に伸ばすという目的に、短期間で見事な成果を上げたゆとり教育をもう一度見直すべきだと考えている。

教育害毒が薄くなるだけでも子どもは、豊かな少年時代を過ごし、自らの持つ才能を上手に伸ばしていくことができるのだ。

2014年11月11日火曜日

白洲次郎

「白洲次郎、占領を背負った男」を読み終えた。
こんな人が日本にもいたのかと思った。

彼は両親の寵愛を一身に受け全国屈指の名門校神戸第一中学に入学した。
でも、この学校の「暗記中心の詰め込み教育」に疑問を感じてなじめなかった。
(先生のいうことをそのまま答案にすることがそんなに偉いのか・・・・・)
そのためか中学での成績は中の下をうろうろする程度でパッとしなかった。卒業するにあたり普通なら一高や三高に進むが、成績の問題でむつかしかった。それで父親が「そんなら、留学してしまえ」と言ってイギリスのケンブリッジ大学に行くことになった。

J.J.トムソンという物理学者の試験を受けたとき、十分復習していたので自信満々であったが、結果はあまりよくなかった。がっかりしながら見たその答案用紙には<君の答案には、君自身の考えがひとつもない>と書いてあった。

彼は英国で学ぶことの幸せをかみしめた一瞬だった。

彼は後日、真珠湾攻撃の報に沸き立つ日本に対し「今に見ていろ、数年で東京は灰燼に帰す。日本の諜報機関は机上の空論ばかりで、生きているアメリカ人をぜんぜんわかっていねえ。あんな奴らのいうことなんかあてになるか!」と今日出海に語った。

敗戦後彼は吉田茂を外務大臣に押し込み、日本の国益を守るためGHQとの激しいやり取りの最前線で闘った。

白洲がいて今の日本があるのだと言える。



日本人の海外留学は減少の一途をたどっている。外国を見て回ったが、日本人の姿は見かけなくなって久しい。
息子は今イギリスで留学しているが、そのスクールでも日本人は以前はかなりいたが、5年ぐらい前から来なくなり、最近はアジア人は中国人と韓国人ばかりだそうだ。アメリカのスクールでもまったく同じことを言われた。

いま日本は第二の敗戦を迎えようとしている。アメリカのモーテルで見たテレビはすべて韓国製で、タイムズスクエアの電飾広告は(28年前に来た時は日本メーカーの看板ばかりで驚いた記憶があるが)今では韓国と中国ばかり、日本は後ろのほうでちらほら。

共産主義の崩壊と情報化が主たる原因だとは思うが、本当の原因は学校教育にあると思っている。

従来の価値観が大きく変動しているのに、学校は旧態依然とした教育にとどまっている。白洲が言った、先生のいうことをそのまま答案にすることがそんなに偉いのかに対する答えは今も全く変わらない。

子どもは一人一人考え方も発想も違う。にもかかわらず一律の考え方を子どもに押し付けて、テストを通して強制している。先生(社会から隔絶した子どもだけの空間の支配者)に社会の道理を説いてもらいたくない。

学校へ行けばいくほど、子どもの頭は固くなり、柔軟性がなくなる。学校教育で子どもの創意工夫を押し殺しておいて、発想がない、言われたことしかできないと言われてもそれは無理な注文だ。

「言われたとおり覚えろ。」と言われそれに従った子どもが優秀だと決められ、いい大学にはいり、先生の言う通り答案用紙を埋めたものだけが「優」をもらって卒業し、官僚や大企業の幹部候補生になる。

やがてそういう人が社会の中枢にいて、優秀ではあっても独自の発想も外国人に対する高度な交渉もできない。そういう人が社会を支配するようになる。そうやって少しずつ社会は敗戦に向かう。これが学歴主義の弊害だ。

明治維新以降日本は経済軍事で高度成長をし日露戦争をピークに凋落した。その間約70年。
太平洋戦争に負け今度は経済で高度成長したがバブルをピークに凋落している。その間約70年。

灰燼から70年たつと教育が成果を上げて学歴官僚が社会を支配するのではないかと思える。

2014年11月5日水曜日

「学歴なし」「就職歴なし」の男



学校に行かず発明続ける

「学歴なし」「就職歴なし」。道脇裕氏 NejiLaw代表取締役
道脇 裕さん(NejiLaw社長)

誕生から二千年以上の歴史を持つ「ねじ」は、史上最も普及している工業品といわれている。
そのねじはいくら締めておいても何年かすると間違えなく緩む。

しかし道脇氏は19歳のころ、ねじが原因で自分の運転する車のタイヤが外れたことから、緩まないねじが作れるはずだと、ひらめき、そこにこだわった。

ねじの締める力を強くするには、ボルトとナットなど互いのらせん構造を精密に作り込み摩擦力を強くすることが研究者やねじ業界の常識だ。それは今も変わらない。 これまでも「緩まない」を標榜するねじはある。

だが、道脇氏は既存の商品は締め付ける摩擦力に頼る「緩みにくい」ねじだったとみていた。そこで、らせん構造そのものにメスを入れ、摩擦に依存しない「緩まない」ねじを実現しようとした。


2千年の歴史を覆す「ゆるまないネジ」 
NejiLawの主力品である「L/Rネジ」のボルトには、右回りで締めるナットと左回りのナット、両方に対応した山が作り込まれている。2つのナットは同じ動きはしない。互いがぶつかると、相手をロックすることで緩みを封じる。 道脇氏はねじの山の形を変えることで、用途に応じた緩まないねじを次々と発案した。

ネジ模型
機械工学の専門家に話をすると「これは理論的に不可能だ」と言われたが、やめなかった。
写真は紙粘土で作った第1号のネジ模型

L/Rネジの開発途上だった4年ほど前、米航空宇宙規格(NAS)に準拠した試験をすると、合格ラインの17分間まったく緩まなかった。それどころか、3時間ほどたつと試験装置のねじが壊れた。緩まぬねじの評判はたちまち広まった。

このねじは現在、橋梁やメガネのボルトに使われようとしていて事業を展開始めている。

道脇氏は10歳ごろに「僕は今の教育システムに疑問を感じるので、自分の足で歩むことに決めました」と言って勝手に小学校をやめて、漁師、とび職など様々な仕事を経験した。

携帯電話が広まる前から、無線機を使って双方向で同時通話できるシステムを作るなど、発明を続けた。米国に渡って学んだこともある。

学校は必要ない

道脇氏は教育システムのどこに疑問を持ったかまでは語っていないが、決まりきった常識を教われば教わるほど無駄な知識が増えて、自分のやるべきことが見えなくなると思ったんだろう。

私自身も振り返るとねじと言うものはこうなっているモノだという常識にとらわれていて、それが改良できるものと言う意識は全くなかった。想像力は学校でつぶされたんだ。

でも、小学校4年ぐらいでそんなことに気づくこと自体が天才かもしれない。

2014年4月22日火曜日

サマーヒルに向かう

息子が明後日成田からイギリスに一人で行く。一人旅は初めてで、正直私も不安だが、本人も不安が6割、期待4割と言っている。

昨年サマーヒルスクールに行き、その広さと自然の豊かさ、子どもたちのふるまいを親子で見た。そこでは授業があるが出席するかしないかは全く本人に任されている。だから自分が勉強したくなれば授業に出て教わるし、そうでなければ一日中遊んでいる。だからどの子も自ら自分の道の選択はすべて自分の意思によって行うという生き方を貫いていて、その振る舞いのすがすがしさに感銘した。

日本に戻ってきて、息子にどうすると聞いたとき、「おそらく」と答えたことに驚いて、何度か聞き直した。その後今に至るまで何度か確認したが、決心は揺るがない。

ビザの取得に悪戦苦闘したが、幸いスクールのスタッフや在校生のお父さんやお母さんに適切なアドバイスをいただき無事取得できた。

その後、彼はほとんど英語が話せないので簡易な電子辞書「Canon 電子辞書 WORDTANK IDP-610E」をアマゾンで買ってあげた。1800円だった。安い! 小学生の英語ならこんなもので十分だろう。

イギリスと日本のやり取りのためにiPod4を持たせることにした。そのiPodは以前私が使っていたやつで、古くなったのと、落としてガラスにひびを入れてしまったので新しいiPod5を買って、そのまま置いてあったものだ。

改めてiPod4を使ってみると今でも古くさくなってないし、軽くて薄いので持ち運びにはこっちのほうがいいかもしれない。

そのiPodに息子のメールアドレスやスカイプの設定をした。

他に息子がいれたいというゲームソフトを入れてあげた。
入れたのはご存知「太鼓の達人」と「脳力+支払技術検定」と「中学生 代数」の三つ。

能力+は 財布の小銭を増やさないように買い物するゲームで小学生級とかコンビニ店長級とか判定される。息子は高校生級か大学生級だった。

もう一つは私が探してきて入れた「中学生 代数」でタイトルは日本語なのに、なぜか1次方程式の質問が英語で表示され、答えは6つから選択する。最初は説明したが、やがて息子は夢中になってしばらく一人でやっていた。

妻は脳力+がおもしろいと息子から取り上げてやっていた。私は中学生がとても面白かった。

息子は飛行機の中が退屈で困るというので、座席についているモニターのゲームはやらないのと聞くと、それはあまりにつまらないという。そこで知恵の輪を買ってあげようかというと、知恵の輪って何んだと聞く。それでトイザらスまで行って見せてあげたら、ほしいというので買ってあげた。

今日はスクールに入学金と授業料を銀行から振り込んだ。約90万円だった。

よく一人で行く気になったねとか、よく手放す気になったねとか言われるが、子どもは遅かれ早かれ独り立ちするし、息子は小さい時から自主性や主体性を大事にしてきたので、結構どこでも自由に飛び出していく。

息子は一人息子なので、家にいる時はいつも一人で退屈そうにしている。だから兄弟が欲しいのかもしれない。

とにかく自ら選んだ道を一人で歩いていくことになる。ただし嫌になったらいつでもやめて日本に戻ってきてもいいよと言っているが、彼が大人になってそのままイギリスかどこか分からないが、異国の地を本拠地にして日本にはほとんど帰ってこなくなるかもしれないと覚悟をしている。

2014年2月1日土曜日

なぜ学校に通わなければならないのか


あるホームページで松本 孝行氏が投稿していた記事の引用です。



先日、とある教育のシンポジウムに誘われたので行ってきました。教育の一般論についての話かと思っていましたが、実際には不登校についての話であるとかフリースクールなどの一般的な教育とは違う教育についての話でした。こういった世界の話はほとんど聞いたことがなかったのでかなり刺激的だったのを覚えています。こういった教育のことをオルタナティブ教育と呼ぶのだそうです。
そのシンポジウムに参加して思ったのは「学校に通う効果は一体何なのか?」ということです。もっと簡単にいえば子供はなぜ学校に通わなければならないのでしょうか。

そのシンポジウムでは関西にあるフリースクールを運営している方と話をする機会があり、そこでこんなふうに教えてもらいました。その方曰く、フリースクールを卒業した若者がフリーターとして働いているのだけれども普通にアルバイトとして働けており、職場にも馴染めているのだそうです。たまに「実は学校に行っていない」というと「えー!」と驚かれたり、修学旅行で枕投げをした思い出などが共有できない事はあったりするそうですが。

私は最初、フリースクールに行っている子や家庭内教育だけで育った子供というのは、一般的な学校似通ってきた子どもたちと馴染めないんじゃないか?と考えていました。しかし、現実はそうでもないようです。もちろん中学生くらいの多感な時期には、学校に行っている子どもとの関係は必ずしもスムーズなものではないとも言っていました。しかし、18歳前後になれば「そういう人もいるよね」と、子どもたちはフリースクール出身でも特に違和感なく溶け込めるというのです。


これらの話を聞いて私は学校教育の意義とは何なのか?と感じました。もっと言えば学校の教育に意味はあるのか?とすら思ったほどです。中学高校と学校に通っていない子供がアルバイトとしてしっかり働き、かつ周囲とうまく馴染めているのです。学校教育を受けていようがいまいが、少なくともアルバイトくらいの仕事は十分にできる能力が身についているのです。

第2期教育振興基本計画では「社会を生き抜く力」「未来への飛躍を実現する人材の養成」「学びのセーフティネットの構築」「絆づくりと活力あるコミュニティの形成」という4つの基本的な方向性を掲げています。これらの方向性のうち、学校でしかできないことは学びのセーフティネットの構築くらいのもので、後はすべてフリースクールなどのオルタナティブ教育でも実現が可能な世の中になっていると思います。

もちろん私は学校なんていらないとは思いません。私も小中高大と通って来て一般的な教育を受けてきた人間です。学校でのかけがえのない思い出もたくさんありますし、友人もたくさん出来ました。学んだことも多かったでしょう。しかしそれらの体験を今や学校で行わなければならない、という時代ではなくなったのではないでしょうか。つまり学校教育以外の新しい選択肢が積極的に選ばれてもよい時代になったと思うのです。

よくアゴラでも医師の井上さんが「大学の授業に出るよりも本を読んでいる方が知識がつく」とおっしゃっています。また本だけではなく、動画を使って色々な学習ができるサービスもネットにはたくさんあります。プログラミングも大学の授業も、また小学校・中学校の教科まで教えてもらえるようなものがあります(【最新】無料で学べるWEB動画学習サイト10選)。これらをうまく使えば、学校の授業を受けずとも必要な知識を得ることができる世の中になりました。

働くようになってから同僚ともちゃんと馴染めて仕事もできるし、学校教育で習う学習もネット動画や本などで十分学ぶこともできます。そんな時代に学校に無理やりにでも子供を通わせる必要性はあるのでしょうか?ここで改めて大人は考えるべきでしょう。「なぜ学校に通わなければならないのか」を


ここまで引用です。
言いつくされているような気がします。ただ、学校へ行くメリットとして友達ができるという点はあると思います。それにもかかわらず、弊害が大きすぎてどうしても子供を学校に行かせようとは思えません。

2014年1月15日水曜日

英語教育

面白い記事があったので引用です。

勉強科目以上の切実な必要性を自分の内部に見つける
片岡義男(作家)

英語という外国語は、ほとんどの日本人にとって、学校での勉強に始まり、学校での勉強に終わる。中学からその勉強を始めて高校で終わるとしても、実に6年の長きにわたって、英語を勉強科目として誰もが背負い込む。中学生という難しい年齢の人たちに、学校の勉強科目はたくさんあり、どの科目でも試験やテストがあり、その都度採点され、最終的には通信簿での評価として固定されてしまう。英語がいったん苦手科目になったら、修正はきかない。英語が苦手のまま、学校の勉強を終える。終わったらそれっきりだから、せいせいすることは確かだが、英語は苦手だったという事実は今もそしてこれからも苦手であるだろう、という未来として続いていく。
学校の勉強科目というものは実は困ったものなのだ。学校で勉強するのは当たり前でしょう、何が困るのですか、と反論されたなら、それこそがおお困りなのだか、僕にはそれ以上どうすることもできない。勉強科目にしなければ、英語を苦手とする人地の数は、激減するような気がする。勉強科目しないとは、試験やテストをしない、したがって採点もしないから成績として固定されることもない、ということだ。難しい単語のつづりを正しく素早く口頭で言う競争などのように、採点することが当然の領域では、愉快な催し物として採点し、順位をつけ、みんなで楽しめばいい。それ以外の領域では、試験なしで成績評価もなし、ということにすると、気が楽になるだけでも学習の効果は飛躍的に上がるのではないか。

社会との接点各学校教育

日本人にとって英語を苦手なものでなくするためには、学校での教育の仕方の全域を、抜本的に変えなければいけないのだろう、と僕は思う。学校とそこでの様々な教育は、あるのが当然であり、それを受けることを通して人は成長していく、と思われている。その通りだろうけれど、学校とそこでの教育というものが、いかに不自然なものであるかには、もう気づいたほうがいい。学校での教育で全員の粒をそろえたうえでの労働力として企業その他に注入する、というこれまでの学校教育は、社会との接点を欠いている点において、不自然さを極めきっている。勉強科目とその試験そして成績は、全員の粒をそろえるために機能してきた。
社会との接点を欠いている、とたったいま、僕は書いた。英語の勉強も社会との接点を大きく欠いている。社会との接点とは日常の現実のさまざまな局面の中での、切実にして痛切な必要のことだ。例えば体に何らかの症状があるので病院へ行ったとして、外来の受付にいる担当者は日本語がおぼつかず、中国語あるいは韓国語でしゃべってもらえないか、さもなければ英語でもいい、といわれて英語をしゃべるような場面は、切実にして、痛切な必要というものの、極めて分かりやすい一例だろう。
痛切にして切実な必要が、常に自分の外側だけからやってくるものであるなら、英語は苦手科目にとどまるだろう。その正反対な必要があるうる、と僕は確信している。英語に関する痛切にして切実な必要が、自分の内部から湧き上がってくるなら、英語がいつまでも苦手科目にとどまるわけがない。問題は教育にも社会にもない。自分の内部にのみ、それはある。
エコノミスト1/14(英語と経済)

ここまで記事の引用

途中までは全く同意見ですが、最後の結論は私の感想とちょっと違います。学校教育の問題は自分の内部に深い傷を残してしまいます。それが英語(に限らず)への挑戦を自ら引きずりおろしてしまうのだと思うのです。自分の内部といえそれは生まれてからの環境の反映でしかなく、幼児期少年期にほとんど人格は完成されてしまうのです。努力をすることも、努力をすることを美徳とする環境の成果だと私は考えています。学校は努力を称賛しながら、テストと評価によってそれを台無しにしているのです。学校教育を変えない限り日本人は英語が苦手なままだと思いますね。この文章は片岡さんの信念と社会の常識との折り合いをつけたものでしょう。

私は1年ほど前から毎晩10分ぐらい布団に入って息子に英語を教えました。覚えたことを確認し、忘れていることはくりかえし戻りました。(私の能力が追い付かなくなったため)今は教えていませんが、イギリスに行って英語を勉強したいと言い、4月から留学する予定です。

2014年1月10日金曜日

海外へ

息子が海外に行く理由は、日本の教育の問題があります。

私自身は日本が大好きだし、世界から帰ってくると日本の自然や食事の豊かさに感動します。しかしながらその素晴らしい日本がいつまでもそのままであり続けることは難しくなってきているのも否定できません。

世界のグローバル化により所得の均質化が進んでいます。同じ仕事で同じ能力なら世界中同じ賃金しか稼ぐことはできなくなっています。言い換えると私たちの仕事は隣の同僚ではなく、物価の安い発展途上国の人たちと取り合っているのです。

企業にとっては給料を増やすと企業としての競争力を失います。そうすれば給料を減らすか、人を減らすしか選択の余地はありません。給与を減らすことはむつかしいので給与に見合う仕事ができない人からやめてもらいたいところですが、それができない企業が多いため、日本の生産性の低さひいては競争力の低下、衰退とつながっています。

ちなみにアベノミクスはカンフル剤を打っているだけなので、一時的に元気になっても日本の衰退は避けられないと思います。基本的に欧米をはじめ先進国は途上国に仕事を取られて衰退しているのです。

他人と同じことをやって仕事ができたのは20年前まででした。給与に見合う仕事のために倍働くと体を壊すでしょう(=ブラック企業)。生き残る人は人が気付かないことに気づき、会社の利益を上げることができる人です。大切なことは独創することとそれを他人に説得することです。

この独創性のために最も大事なことが子ども時代の遊びです。子ども同士で遊びすぎるぐらい遊ぶと次々とルールを変えて試しています。何度も何度も話し合って工夫をしています。また昆虫や魚に夢中になってもいいのです。そこにまた工夫があるのです。

教室でおとなしく座っている何倍も何十倍も工夫をします。工夫することで工夫する思考手順を自ら学ぶのです。それは教わってできることではありません。大人は放っておくしかないのです。独創性というのは自分がやりたいことをやりたいようにやることです。それが他人から見れば独創になるのであり、決して何か独創的なことをやろうとしてもできません。ましてや教えてできることでもありません。

さりとて、人と違うことをやっても人と衝突ばかりしていては成果は上がりません。つまりは独創性と同時に交渉力が重要です。つまりやりたいことを論理的に整理しないと説得できないのです。
ここでも子ども同士の遊びの中にすべて含まれているのです。

  • やりたいようにやるだけでは一緒に遊んでもらえません。
  • 人の言いなりにやっても面白くありません。
  • やりたいことの面白さを他人に説得しないと一緒に遊べないのです。

一方日本の協調性は「異なる意見を論理による説得で対立を解消する」ことではなく、暗黙の合意に従うと(空気を読む)いうことに他ならないのです。
ここでの空気は「たぶんほかの人はこう考えているだろう」という推測です。そこには「私はこう考えるが、君は」という対立と共存がありません。日本人だけの集団では対立することが人間関係の毀損につながるため対立する前に避けるのです。

ところが日本では協調性重視で教育されてきた人たちが教育や企業の中枢を占領しています。その結果、子どもたちの特異性は圧殺され、意志が強ければ抵抗しますが、その結果いじめや体罰など組織的に排除または矯正されてしまうのです。
一時期「ゆとり教育」で期待を持ったこともありますが、それもひどい揺り戻しで元の木阿弥になりました。

国際都市ロンドンでは50%ぐらい外国人がいて多種多様な人種が入り乱れて生活し、仕事をしています。暗黙の合意なんかどこにもありません。ニューヨーク、シンガポールなどでも30%以上の外国人が共存しています。一方東京では外国人の比率は3%ぐらいしかありません。

出る杭は打たれるということわざでわかりますが、日本人は世界から見てかなり異質だと思います。基本的に国際会議でも自己主張をしません。日本では自己主張が強いと変人扱いされ仲間はずれになりかねません。しかし世界は自己主張をしないやつはそこに存在していないものとされ、正当な考えも無視される傾向があります。

10年後日本はそのあまりの非効率さから経済的にも政治的にも衰退し、影響力を失うでしょう。日本だけで生きていくということは貧しい人はさらに貧しくなると考えています。

日本の学校で教育を受けると、独創性や交渉力だけでなく英語も国際的には通用しません。

かと言え、あまり幼少から外国で生活すると日本人としてのアイデンティティが失われ、「おまえは何者だ」という指摘に対し答えられないという根なし草になることも恐れます。

一方、年齢が高くなってから外国に行っても思考の柔軟性が失われ、日本人の発想に縛られて世界と対等に渡り合うのが難しくなるでしょう。

サマーヒルスクールが外国人は9歳から11歳までしか受け入れないという姿勢は私も共感できます。同様の考えはクロンララスクールでも聞きました。

アジア諸国(香港、シンガポールなど)でも小学生留学はありますが、今回の選択には全く入りませんでした。アジア諸国は日本以上に管理教育が厳しく、私の本意ではありません。

たぶん20年たっても英語が世界共通言語というのは変わらないでしょう。そしてイギリスは大英帝国時代の世界支配の経験があり国際的コミュニケーションの取り方は慣れています。それにキリスト教文化の感性を年少時に体験しておけば大人になって外国人との交渉に役に立つはずです。
サマーヒルスクールには世界の各地から子どもたちが集まっています。大人になった時、世界中に同じ年代の友達がいるということは大変な財産になるはずです。


彼の将来が企業であろうが、政治であろうが、研究生活であろうが、大事なことは独創性と交渉力そして英語力でしょう。そのどれも日本にはないということはとても悲しいことですが、息子が将来日本に戻って教育改革に取り組んでくれればそれはそれでうれしいと思っています。

2014年1月6日月曜日

海外のフリースクール

2014年が開けました。あけましておめでとうございます。
久しぶりに書き込みをします。

昨年は私たち家族はアメリカとカナダとイギリスに旅行し海外のフリースクールを見て回りました。といってもわずかですが。

まずアメリカではサンフランシスコにおいて(フリースクールではありませんが)サマースクールに半日だけ息子一人で入ってきました。次にデトロイト郊外のクロンララスクールに行き、さらにまだ開校前でしたがカナダトロントのリーチサドベリースクールに、そしてボストン郊外のサドベリーバレースクールを見て回りました。ほかにサンフランシスコとマジソンでホームスクールの仲間と交流しました。そして、一度日本に戻り、今度はイギリスレインストンのサマーヒルスクールを訪問しました。

とにかく猛スピードでクルクルと回ったので目が回る一年でした。そんなこんなで日本に帰ってもバタバタと忙しくてこのホームスクールクラブにまで手が回らず、申し訳ありませんでした。

結論から言えば息子はイギリスに行くことを選択しました。ほかのスクールより特別素晴らしかったわけではありませんが、ほかのスクールには寄宿舎がなくて親子で引っ越しをするしかなく、それは大変難しかったからです。

また日本のサドベリースクールに在籍しているのでそこを抜けることも息子にとっては大問題でした。ですから、最初にアメリカのスクールの話を持ち掛けたときは言下に嫌だと言いました。

それでもアメリカへは一家で移住することも視野に入れて大陸をレンタカーで横断縦断しました。

まずホームスクールをアメリカの国内でやることについてはほとんど不可能という結論になりました。なぜかといえばホームスクーラーには就学ビザが降りないとクロンララスクールから聞きました。そうなると観光ビザとなりアメリカでは3か月に一回日本かヨーロッパに移動し戻ってこないといけません。三か月ごとに飛行機に乗って移動するのでは息子も落ち着いて生活はできないと思うのです。

クロンララスクールでは就学ビザを出すことは出せますといわれましたが、寄宿舎がないので親が一緒に現地に滞在する必要があり、しかし親の就学ビザか就労ビザなど長期ビザがなければ子どもを置いてアメリカを出入国する必要があります。夫婦どちらか片方がアメリカに息子と同行し、もう一方が3か月以内に日本から来て、入れ替わりにもう片方が日本に帰国する、それを繰り返すことも真剣に検討しました。


最後にサドベリーバレースクールに行きました。そこはかなり理想的な環境で息子が海外で過ごすには最適と考えましたが、就学ビザが出せないといわれ、ホームスクールと同様の問題で断念するしかありませんでした。

この時点ではクロンララにするつもりでしたが、仕事の関係で移住することはむつかしいのでもう一つサマーヒルスクールも検討することにしました。

日本に帰り、英国レイストンのサマーヒルスクールと連絡を取って11月に訪問しました。そのスクールには寄宿舎があり、諸外国から滞在している少年少女が滞在していて、さらに日本人のスタッフやメンバーもいました。そのため言語的な混乱もなくかなり詳しく話を聞くことができました。ちなみに外国の子どもは9歳から11歳までしか受け入れていないとのことでしたが、息子は9歳で問題はありませんでした。-なお年齢制限の理由は9歳未満では母国のアイデンティティが失われ、12歳以上では公立校の悪しき習慣がスクールにとって障害になるそうです。
日本から英国への移動は息子を成田空港まで送れば、航空会社が面倒を見てくれ、到着したヒースロー空港でスタッフが待機していて一緒にスクールまでバスで連れて行ってくれるそうです。帰りも同様だそうです。

サマーヒルでは初日に親子3人とスタッフで話をし、翌日息子が一人でスクールに行き、私たちは近くの海岸で散歩をし昼過ぎにスクールに戻りました。その間息子はほかの子どもたちとブルドッグという鬼ごっこをしたり、ドラムを教えてもらったりして過ごし、昼も一人で食堂に入ってメニューから一つ選んで食べたそうです。その後親子でスクールミーティングに参加して話し合いのやり取りを聞くことができました。スタッフとメンバーが結構激しく論争しているのに感動しました。もっとも内容は全く分かりませんでしたが。

サマーヒルと私たちとの話し合いをした結果「あなたの子は理想的で問題は全くないからいつでも受け入れます。いつにしますか?」と言われました。
問題は息子の意思ですが、帰国してから息子に「サマーヒルスクールに行くかい」と聞いたとき「おそらく」と答えて、その後何回も「一人で行って生活するんだよ」と確認しましたが、別に意思は変わっていないそうです。理由を聞くとまず英語を使えるようになりたい、他にたくさんの仲間がいて、自分がやりたいことができる環境や設備がそろっているからと答えました。
これで決まりで、息子はとりあえず4月から1学期だけイギリスのサマーヒルスクールで暮らし、夏休み日本に帰り、続けたければまたサマーヒルに戻ることにし、18歳までは通うことができます。いつでも無理だと思えばやめてもいいと伝えました。

ちょっと息子が羨ましいなと思いました。

なぜ海外かは次回書きたいと思います。